現在は廃寺となった「ワット コークプラヤー」はアユタヤ王国初期のラーメースワン王の治世に建てられた後、アユタヤ王族の処刑地として使用されました。

地図
王族の処刑地となる
1369年にアユタヤ王国2代として即位したラーメースワン王ですが、王族であるパグワにより1370年に退位させられます。
そしてアユタヤ王国代3代として即位したパグワは1388年に崩御し息子であるトーンチャンが王位に就きます。

しかし、トーンチャン王の即位7日後にラーメースワンがクーデターに成功し自らアユタヤ王国第4代(在位1388年ー1395年)に即位しました。
そして退位させられたトーンチャン王は「ワット コークプラヤー」にて処刑されました。

アユタヤ王国の歴史は王族による権力闘争の歴史と言っても過言ではなくトーンチャン王の後に多くの王族が「ワット コークプラヤー」で処刑されています。

そのように内部での権力闘争のため国は衰退し、1569年にビルマの属国となり

1590年にナレースワン王によりアユタヤ王国は復活し東南アジアでの重要な貿易拠点となったにもかかわらず、、、
王族の権力闘争のために国が衰退し1767年にビルマの侵攻を受けアユタヤの都は徹底的な破壊をされて滅亡しました。

どんな強大な国も組織もその崩壊は内部の権力闘争が原因と「ワット コークプラヤー」で刑場の露の消えた王族達は暗示しているのではないでしょうか。
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