マングローブ林や野生のコウモリが見られるメナム島にある「ピースアサムット要塞博物館」はバンコク近郊の歴史的スポットです。
地図
開園時間:朝8時半から夜7時半まで
(時間変更があります)
ピースアサムット要塞博物館への行き方
ピースアサムット要塞博物館まではBTSパークナム駅を下車後にバイクタクシーにて5分ほどでパークナム市場桟橋に着きます。
桟橋で運賃6バーツを払い渡し舟に乗ること10分くらいで対岸に到着します。
こちらがピースアサムット要塞博物館の入口になります。
ピースアサムット要塞博物館はメナム島にありますのでこの橋を渡ります。
橋を渡ってからこのような道を5分ほど歩くと砲台に到着します
なお、現在でもピースアサムット要塞博物館はタイ海軍が管理をしています。
敷地内の小さな博物館ではメナム島の模型や生息するコウモリなどが展示されています。
ピースアサムット要塞とパークナム事件
ピースアサムット要塞はラーマ2世(在位1809年ー1824年)の治世にバンコク防衛のためにつくられた要塞でラーマ5世の治世に(在位1864年ー1910年)に武装が強化されました。
19世紀になるとフランスの植民地政策のためインドシナへ進出したことにより、当時タイの領土であったカンボジア、ラオスの領有権問題が起き軍事衝突が発生しました。
こうした緊張した状況下でタイ軍は貿易の重要拠点であるチャオプラヤー河の防衛のためピースアサムット要塞や周辺の要塞の武装を強化し沈船や機雷などを設置しました。
1893年7月13日パークナム事件
1893年7月13日午後6時15分、フランス海軍所属の軍艦2隻がバンコクにあるフランス大使館へ向かうためにチャオプラヤー河口を航行していました。
これを見たタイ軍は停船するよう空砲による警告を行いましたが、2隻の軍艦は警告に従わないことからタイ軍が実弾射撃を開始し午後6時30分に両軍の戦闘が開始されました。
タイ軍の要塞は武装強化されていましたが近代化したフランス軍の軍艦には歯が立たずこの戦闘でタイ軍は戦死者15名でフランス軍の戦死者2名が犠牲となってしまいました。
2隻のフランス海軍の軍艦は夜10時頃にバンコクのフランス大使館に到着しフランス政府は賠償としてタイ政府に対しカンボジアとラオスの領有権の割譲を要求しました。
パークナム事件後のタイ
事件後ラーマ5世は領土割譲の要求を拒み賠償金での解決のためにインドシナでフランスと対立関係のあったイギリスに協力を求めました。
しかし、そのイギリスもタイ南部の領土割譲などフランスに協力する姿勢を見せフランス海軍も艦艇によるタイランド湾の海上封鎖を行いました。
1904年にタイはカンボジアとラオスの領有権を放棄することでフランスとの条約に署名し現在の形に近いタイの国境線となりました。
またフランスとイギリスはインドシナでの紛争を回避するため1896年1月15日にタイを緩衝地帯にすることを宣言しました。
パークナム事件でタイは多くの領土を失いましたが、欧米諸国からの植民地を免れ東南アジア諸国では唯一独立を保ちました。
またフランスとイギリスの行為に不信感を持ったラーマ5世やタイ政府は日本やロシア、ドイツなどと関係重視する外交方針へ転換しました。
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