アユタヤにある「ワット プラドゥーソンタム」アユタヤ王国時代に2つのお寺「ワット プラドゥー」と「ワット ロンタン」を合併したお寺です。
地図
アユタヤ駅から車で約6分
ソンサム王と日本人傭兵
アユタヤ王国24代ソンサム王(在位1590年ー1628年)の治世にオランダや日本などの貿易を始め鉄砲の扱いに慣れたポルトガル人傭兵を雇いました。
しかし、ビルマとの戦いにポルトガル人傭兵が役に立たないことから、日本では戦国期が終わり浪人した侍を傭兵として雇い、この時期に山田長政などが海を渡りアユタヤ王国で活躍しました。
日本人傭兵部隊の反乱
多くの日本人がアユタヤ王国に渡ってきたことから日本人町が形成され日本との貿易が盛んになりました、
しかし同じころ中国もアユタヤ王国との貿易を行っておりタイにいる華僑は増加する日本の貿易に脅威を感じていました。
そのような状況でアユタヤの役人による不公平を訴えた日本人貿易商はソンサム王を暗殺を計画をし、1610年に日本人傭兵500名が反乱を起こし王宮に乗り込みました。
反乱から逃れたソンサム王は「ワット プラドゥーソンタム」の僧侶に匿われました。
「ワット プラドゥーソンタム」の8人の僧侶は日本人傭兵部隊と交渉を始め、不正を行った役人の腐敗を調査しすることを約束し、反乱に関係した日本人貿易商や傭兵については無罪とすることで事件は収束しました。
その後のワット プラドゥーソンタム
19世紀のラーマ4世の(在位1851年ー1868年)に「ワット プラドゥーソンタム」は修復が行われました。
壁にある古い壁画は修復時に描かれたものとされています。
江戸幕府の鎖国政策により東南アジアでの日本との貿易が廃れ代わりに中国人貿易商が力をもつようになり、現在では中国人貿易商の子孫が政治や経済に大きな影響をあたえています。
もし、鎖国がなければ東南アジアで日本人貿易商の子孫による実業家や首相などが現れたかもしれません。
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