タイ北部ナーンの旧市街には長さ3600m、高さ3,8メートル、幅2,5mの古びた城壁がそびえ立ち、かつてナーンが王国であった面影を残しています。
地図
ナーンナコーン空港から車で10分
カーオ王国
カーオ王国はタイ族の一部の部族の長プーカーが13世紀に作った部族国家です。
そのカーオ王国3代 カオクアンの治世に王が不在の隙に隣国のパヤオ王国のガムムアン王により占領されてしまいました。
そのとき王妃は身ごもっており、生まれたパーノーン王子はガムムアン王に仕えました。
そのパヤオ王家一族の内紛が起きた隙にパーノーンはガムムアン王の駆逐に成功し、1323年にパーノーン王(在位1323年ー1353年)としてカーオ王国4代として即位しました。
独立を取り戻したパーノーン王はチェンマイを都とするラーンナー王国4代カムフー王(在位1334年ー1336年)と協力してパヤオ王国を占領しました。
しかしパヤオ王国の占領に関して両国は戦利品を巡り対立が始まりました。
スコータイ王国との友好関係
カーオ王国5代カーンムアン(在位1353年ー1363年)はタイ中央部のスコータイ王国と友好関係を結び仏舎利などをもらい受けるなどカーオ王国は貿易などで栄えました。
しかし、これらカーオ王国とスコータイ王国の良好な関係にスコータイ王国の併合を狙うアユタヤ王国が不満を持ったことから、カーンムアン王はアユタヤ国王により毒殺されました。
カーオ王国滅亡とビルマの支配
1438年スコータイ王国はアユタヤ王国に併合され、後ろ盾を失ったことからカーオ王国は衰退し1450年にラーンナー王国10代ティローカラート王(在位1441年ー1487年)が攻め入ったことから王国は滅亡しました。
その後ラーンナー王国が任命する王によりこの地は統治されていました。
しかし1558年にラーンナー王国もビルマの属国とされこの地はビルマが任命する王により統治されました。
ナーン王国の成立
1752年ビルマはカーオ王国の血筋が絶えていたことからティンマハーウォン(在位1726年ー1752年)をナーン国王にとして任命しました。
その後、ビルマのコンバウン王国の衰退とタイのタークシン王やその後のチャックリー王朝の勢力争いのためにナーンには二つの国が擁立する2人の王が存在する状況になりました。
しかし、ビルマが任命したナーン王国6代アッタワパンヨーを1788年にタイも承認したことにより戦乱で荒廃したナーンの復興が始まりました。
タイ王国でのナーン王国
その後ナーン国王はタイにより任命され、1853年にナーン国王12代アナンタヨット王(在位1853年ー1891年)はタイから中国の雲南省にあるタイ族自治州の攻略を命じられました。
その攻略作戦は1855年まで続きましたが失敗に終わりました。
しかし攻略失敗にもかかわらずナーン王国の献身的な貢献がタイ国王に認められ現在ある城壁の建設が認められました。
ラーマ5世による近代化とナーン王の廃止
タイの近代化を推し進めるラーマ5世(治世1868年ー1910年)により各地方の王による統治からタイ中央政府が任命した知事による地方統治が始まりました。
しかし、ナーンでは13代国王スリヤポンパリットデート王(在位1894年ー1918年)はナーンの知事に任命され引き続き統治を行いました。
そんなナーンでもナーン王国14代マハープロムスラーターダー(在位1918年ー1931年)の崩御後にタイ中央政府がナーンの知事を任命しナーン王国の歴史は終わりました。
ナーン王家は廃止されましたが、その子孫は現在でもナーンの名士として現存しています。
小国ゆえに大国の勢力争いに翻弄された歴史がありますが、ナーンの独自の文化的アイデンティティを見ながら観光をするのもいいかもしれません。
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